信仰という名の暴力、あるいは与えられた呪いについて

わたしに初恋が訪れたのは31のときだった。それはわたしの人生の中で初めて経験する感情だった。今まで生きてきたのは一体なんだったのかと思った。こんなに甘美なものがあると、知っていたならこんな風にはならないはずだった。わたしにとっての初恋はとても甘くて鋭利なものだった。

わたしは色恋沙汰と無縁の人生を送ってきたのではなかった。むしろ異性には恵まれていた方だといっていい。わたしはクラスの誰よりも先に恋人をつくった。クラスの誰よりも先に経験を済ませ、誰よりも先に恋人と別れた。もちろんそれは若さゆえの拙さが招いた結果であって、それから先に付き合った人とは長くなることもあったし、短く終わることもあった。恋人がいる時期でもわたしに寄ってくる男は途切れることがなかった。わたしは時にそのような男の相手をし、時には冷たくあしらった。

それだからわたしは、恋人ができただの、寝ただの、別れただのという話題の、ほとんど全てに付随するといってよい華やかさと切実さに、どこか他人事のような気持ちでいたのだった。どうしてその程度のことでそれほどに盛り上がれるのか。わたしは社交をうまくするたちだったので、そのようなことはおくびにも出さなかったし、むしろ経験豊富な話し相手として相談に乗ることの方が多かった。

わたしも30歳という歳が近づくにつれて、人並みには焦りを覚え、その時付き合っていた男と結婚をした。だからといって相手を妥協したわけでは一切なかった。わたしはわたしと結婚するに足る男だけを特別な立場としてそばに置いていた。それは22から続くわたしの中でのルールだ。だからわたしの夫は自慢の夫であり、結婚して3年が過ぎてもわたしは穏やかな幸せを享受していた。

その夜も女友達とバーで飲んでいると男から声をかけられた。バーで女に声をかける男をわたしは軽蔑していたが、わたしに軽蔑される男というのは珍しいものではなかった。その男はわたしに声をかける男の大半がそうであるように、どこか胡散臭く、愚かで、礼節を欠いているように見えた。わたしの左手の指輪を見つけてがっかりする所も同じだった。一つだけ面白いと思ったのはその男が手品ができるということだった。わたしは言われるがままに財布を取り出し、コインやらお札やらを貸してやると、彼は実に鮮やかな手つきでそれを消したり、折り曲げてから直したりした。幾つかの手品が終わると、彼は最後にこう言った。今夜のショーの報酬として、これは頂いていきます。彼の手にはわたしの名刺があった。財布を見ると、予備として入れていた名刺が消えていた。

どうしてその男ともう一度会おうと思ったのかはわからない。男はあいかわらず胡散臭く、愚かで、それでいて彼の指先は人間には不可能なことを成し遂げた。彼はわたしとは全く話が合わないということも分かった。それでも彼は意に介さず話し続け、ときにぶっつりと話題が途切れ、それでいて会話が駄目になることはついになかった。翌週もう一度会いたいという彼の申し出をわたしは断ることができなかった。

3度目に会った時、わたしは彼にとびきりの手品が見たい、と言った。彼はすこし迷ったそぶりを見せそ、それから言った。左手を出して。わたしは従った。彼の手が重なる。今からあなたを自由にします。わたしは肯く。魔法めいた囁きが彼の口から漏れる。手を退ける。わたしの薬指から指輪が消えていた。

それからどのようなやり取りをしたのか、実はよく覚えていない。気づいたら彼とベッドにいて、気づいたら家に着いていた。左手には指輪があった。しかし彼はわたしに不自由を返してはくれなかった。そうしてわたしは彼に与えられたものに気付いた。恋をするというのは心を盗まれることではなかった。恋する心を与えられるものだったのだ。

わたしは夫の目を盗んで男と会い続けた。かつて彼のものだった胡散臭さ、愚かさは今やわたしのものだった。彼は会うたびに胡散臭さが消え、愚かではなくなった。わたしにとって彼との間の一切は切実なことだった。彼との時間がわたしの生活を切り取った。わたしの時間の一部として彼との時間があるのではなかった。彼の時間との一部としてわたしの生活があるのだった。わたしは夫を欺く必要はなかった。元から夫との時間は恋ではなかったから。だから今まで通り夫と接した。ついに夫はわたしの恋を見つけ出した。

きみを信じていた、でももう終わりだ、きみを訴える。どの言葉も理解できなかった。それでもわたしは常識的な妻のように振る舞った。彼に会いに行く、近況を伝える。彼は信頼できる優秀な人間だ。この状況にもなんらかの素敵な助言をくれるにちがいない。彼は何も言わなかった。それが彼と会った最後になった。

夫のせいで彼が会ってくれなくなった。夫が憎い。夫はわたしの初恋を奪った。わたしがやっと巡り合えた恋。生活と財産さえ奪おうとしている。それは大したものではないと思う。それでもそれを守るために夫とパートナーシップを組んだのだ。わたしはその義務を全うした。夫はそれさえも裏切った。夫にわたしの恋に口出しをする権利はない。まして初恋だ。どうしてそれを尊重してくれない。夫が憎い。どうして。わたしの気持ちは。

すべての諍いと手続きが終わった後、夫はこう告げて立ち去った。僕にとっては、きみがそうだった。夫はとても愚かな顔をしていた。わたしには夫の言葉は理解できなかった。したいとも思わない。わたしはこれから、失った恋を取り戻しに行かなければ。