あなたを愛するひとりの人間より、愛を込めて

きみには愛が足りない。愛することを知りなさい。

きみのやっていることは自己満足にすぎない。自覚しているなら結構、ただしそれは変わる必要がないことを意味しない。どうしてきみは自分がそんなに大事なんだ?自分がよければそれでいいのか?だとしたらそれはきみの為にならない。きみの喜びのほとんどすべては他者からもたらされる。きみがきみ単体で生み出せる喜びは他者からのそれよりはるかに少ない。ならばどうして、他者より自分を大切にする道理がある?

きみはおそらく、愛の存在を知らないのだろう。自己愛の上には何もないと思っているのだろう。だがそれは間違いだ。愛はある。それは明確だ。わたしだけではない、今まで生きた数々の偉人が、芸術家が、宗教家が、そしてきみの隣人たちが、その存在を知っている。そうして力を得てきたのだ。もし愛がないとすれば、われわれがこのような文化を築き上げることはなかっただろう!

きみは確かによく考え、よく探した。それでも見つけられなかった。ただそれだけのことだ。それともきみは、きみが世界で一番有能で、歴史上最大の天才だと、そう主張するのか?だとしたらそれは賢明とは言えない。わたしは、偉大なる先人がわたしよりもはるかに優れた頭脳の持ち主だと信じている。だからわたしには見つけられなくても、彼らには見つけられたものが数多くあることを知っている。わたしだって彼らと同じだけ深く、同じだけ多くのものを見ることができたというわけではない。それでもたとえば、愛というものが、その形を明確に知ることはできずとも、ある、ということだけは、確かに知っているということは言える。

きみはまだ見つけていない。でも、あるということは知って欲しい。わたしを含め、多くの人がきみに語りかけている。愛の痕跡はそこらじゅうにある。きみがそれを無いと信じるなら、それを見つける可能性は限りなくゼロに近い。あると信じるほうが、いくぶんかマシなのだ。すまないが、きみが見つけられることは保障できない。信じて、信じて、それでも見つけられないということだってある。ともすれば、そのような人が多いのかもしれないのだ。それでもわたしはきみにこのことを伝えたかった。これは単なるわたしのエゴだ。聞いてくれて、とても嬉しく思うよ。

ひとの為に生きる人へ

あなたは、他人の為に何かをしたことがありますか?私は、ありません。

もちろん、私にだって、他人に贈り物をしたことがあります。でもそれは、常に自分の為でした。私が贈り物をするとき、私には様々な目的がありました。お返しが欲しい。自分を好きになってもらいたい。関係を維持したい。関係を深めたい。ありがとうと言って欲しい。人を喜ばせられる人でありたい。あなたの喜ぶ顔が見たい。センスのある人だと思われたい。あなたにとって重要な人でありたい。あなたの世界を広げたい。記憶に残りたい。あなたに幸せになって欲しい。あなたにこれを贈りたい。

すべての贈り物は、私のこのような欲望を満たす為だけのものでした。もちろん、常に望む結果が返ってくるわけではありません。それでも私は、それが望む結果に繋がると信じて、物を贈りました。あなたを喜ばせたい、という欲望を満たす為には、あなたのことをよく考える必要がありました。正直これは難しいことです。一番簡単に満たせるのは、あなたにこれを贈りたい、という単純な欲望でした。ただ贈ればよいのですから。もしかしたらその欲望は、背後に様々な高次の欲望を抱えていたのかもしれませんが、ともかく、私はそれを贈ることによって満たされました。

私の行動はすべて上記のように説明できます。私は私の欲望を満たす為だけに行動します。あなたの為に何かをすることはありません。するとすれば、それはあなたの為になることによって、自分の為になる、というようなときだけなのです。

私のことをひどい人だとお思いでしょうか。愛のない人間だとお思いでしょうか。愛に他者への奉仕が含まれるとしたら、私はおそらく愛のない人間です。私はあなたに、自分が愛のある人間だと思われたい、という欲望を持っていますから、表面上、あなたを想っているように行動するでしょう。でもそこに愛はありません。あるとしたら自己愛です。

私からの愛が欲しい人へ。どうか諦めてください。私にはあなたのための愛がありません。あるのはせいぜい、あなたに幸せになって欲しい、という浅はかな自己愛のみです。私が満たされるには、あなたに幸せになってもらうほかありません。だからあなたの幸せに、私の愛が含まれていては困るのです。どうか諦めて。どうか諦めて、私からの愛のまがい物で満足して、そうして幸せになってください。

私の迷信

今日はこれから「耳をすませば」がTV放送される。金曜ロードショーだ。私の家には(正式な)テレヴィがなく、持ち運びができワンセグ放送が受信できる小さな機器がある。一昔前のデジタル写真立てのような見た目で(というかデジタル写真立ての機能もある、使ったことはないけれど)、いまならタブレット的な製品になっているのだろうが、あいにく数年前に親からもらったもので今みるとやすっぽいように見える。

これは録画しておこうと思い、今日の午前中に録画予約をした。貧弱なソフトウェアで(あるいはワンセグの仕様なのかもしれないが)数時間先の番組しか録画することができない。本当は録画しているし他のことをして過ごそうかと思っていたのだが、暇になってしまって、リアルタイムで見るのもいいかもしれないな、と思う。

しかしなんとなく気が進まない。そうして考えて気づいたのだけど、どうやら私はこの機器を信用していないようだ。録画しつつ視聴するという動作がなんとなく危なっかしく思えるのだ。

もちろん、録画している時に視聴できないような録画機能なんてないだろう。録画機が発明されてどれだけ経つと思っているのだ。そもそも今までの使用経験からいっても何も問題ないはずだ。そうわかっていても若干の忌避感がある。

思うにこれは私がこの機械の原理をきちんと理解できていないんだな。視聴するという機能と録画するという機能を内部的にどう実現しているのか。そもそもテレヴィってどういう仕組みなのだろうか?PCのような仕組みだと考えると、演算機能の性能によっては同時に走っている機能の処理に影響があることがないとは言えない。視聴するという処理によってリソースを消費し、録画が不十分になるなんてことがあるとやだなあ、と思う。

でもテレヴィってPCより前にあったんだよね。じゃあ違う方式なのかな。あんまり演算してないとか。でもSDカードにデータを保存するようになっているので、なんらかの情報処理はあるんだろうな。じゃあテレヴィってなんで動いてるの?よくわからない。

こういうことを思うにつけ、知識の不足を痛感する。なんで私は今まで原理のわからないものに囲まれて、その仕組みを知ろうともしなかったのだろう?ともだちに、普通は将棋のルールくらいしってるでしょう、結構接する機会もあるし、って言ってしまったけど、それを言うなら私はどうしてテレヴィの仕組みをこんなにも知らないのだろう。私は例えば蛇口をひねるとどうして水が出るかもよく知らないのだ。蛇口だけを持ってきて、水が出ることを期待した人を馬鹿にできない。録画と視聴を同時にすることへの抵抗感は、そのまま現代の小さな迷信だ。

信仰という名の暴力、あるいは与えられた呪いについて

わたしに初恋が訪れたのは31のときだった。それはわたしの人生の中で初めて経験する感情だった。今まで生きてきたのは一体なんだったのかと思った。こんなに甘美なものがあると、知っていたならこんな風にはならないはずだった。わたしにとっての初恋はとても甘くて鋭利なものだった。

わたしは色恋沙汰と無縁の人生を送ってきたのではなかった。むしろ異性には恵まれていた方だといっていい。わたしはクラスの誰よりも先に恋人をつくった。クラスの誰よりも先に経験を済ませ、誰よりも先に恋人と別れた。もちろんそれは若さゆえの拙さが招いた結果であって、それから先に付き合った人とは長くなることもあったし、短く終わることもあった。恋人がいる時期でもわたしに寄ってくる男は途切れることがなかった。わたしは時にそのような男の相手をし、時には冷たくあしらった。

それだからわたしは、恋人ができただの、寝ただの、別れただのという話題の、ほとんど全てに付随するといってよい華やかさと切実さに、どこか他人事のような気持ちでいたのだった。どうしてその程度のことでそれほどに盛り上がれるのか。わたしは社交をうまくするたちだったので、そのようなことはおくびにも出さなかったし、むしろ経験豊富な話し相手として相談に乗ることの方が多かった。

わたしも30歳という歳が近づくにつれて、人並みには焦りを覚え、その時付き合っていた男と結婚をした。だからといって相手を妥協したわけでは一切なかった。わたしはわたしと結婚するに足る男だけを特別な立場としてそばに置いていた。それは22から続くわたしの中でのルールだ。だからわたしの夫は自慢の夫であり、結婚して3年が過ぎてもわたしは穏やかな幸せを享受していた。

その夜も女友達とバーで飲んでいると男から声をかけられた。バーで女に声をかける男をわたしは軽蔑していたが、わたしに軽蔑される男というのは珍しいものではなかった。その男はわたしに声をかける男の大半がそうであるように、どこか胡散臭く、愚かで、礼節を欠いているように見えた。わたしの左手の指輪を見つけてがっかりする所も同じだった。一つだけ面白いと思ったのはその男が手品ができるということだった。わたしは言われるがままに財布を取り出し、コインやらお札やらを貸してやると、彼は実に鮮やかな手つきでそれを消したり、折り曲げてから直したりした。幾つかの手品が終わると、彼は最後にこう言った。今夜のショーの報酬として、これは頂いていきます。彼の手にはわたしの名刺があった。財布を見ると、予備として入れていた名刺が消えていた。

どうしてその男ともう一度会おうと思ったのかはわからない。男はあいかわらず胡散臭く、愚かで、それでいて彼の指先は人間には不可能なことを成し遂げた。彼はわたしとは全く話が合わないということも分かった。それでも彼は意に介さず話し続け、ときにぶっつりと話題が途切れ、それでいて会話が駄目になることはついになかった。翌週もう一度会いたいという彼の申し出をわたしは断ることができなかった。

3度目に会った時、わたしは彼にとびきりの手品が見たい、と言った。彼はすこし迷ったそぶりを見せそ、それから言った。左手を出して。わたしは従った。彼の手が重なる。今からあなたを自由にします。わたしは肯く。魔法めいた囁きが彼の口から漏れる。手を退ける。わたしの薬指から指輪が消えていた。

それからどのようなやり取りをしたのか、実はよく覚えていない。気づいたら彼とベッドにいて、気づいたら家に着いていた。左手には指輪があった。しかし彼はわたしに不自由を返してはくれなかった。そうしてわたしは彼に与えられたものに気付いた。恋をするというのは心を盗まれることではなかった。恋する心を与えられるものだったのだ。

わたしは夫の目を盗んで男と会い続けた。かつて彼のものだった胡散臭さ、愚かさは今やわたしのものだった。彼は会うたびに胡散臭さが消え、愚かではなくなった。わたしにとって彼との間の一切は切実なことだった。彼との時間がわたしの生活を切り取った。わたしの時間の一部として彼との時間があるのではなかった。彼の時間との一部としてわたしの生活があるのだった。わたしは夫を欺く必要はなかった。元から夫との時間は恋ではなかったから。だから今まで通り夫と接した。ついに夫はわたしの恋を見つけ出した。

きみを信じていた、でももう終わりだ、きみを訴える。どの言葉も理解できなかった。それでもわたしは常識的な妻のように振る舞った。彼に会いに行く、近況を伝える。彼は信頼できる優秀な人間だ。この状況にもなんらかの素敵な助言をくれるにちがいない。彼は何も言わなかった。それが彼と会った最後になった。

夫のせいで彼が会ってくれなくなった。夫が憎い。夫はわたしの初恋を奪った。わたしがやっと巡り合えた恋。生活と財産さえ奪おうとしている。それは大したものではないと思う。それでもそれを守るために夫とパートナーシップを組んだのだ。わたしはその義務を全うした。夫はそれさえも裏切った。夫にわたしの恋に口出しをする権利はない。まして初恋だ。どうしてそれを尊重してくれない。夫が憎い。どうして。わたしの気持ちは。

すべての諍いと手続きが終わった後、夫はこう告げて立ち去った。僕にとっては、きみがそうだった。夫はとても愚かな顔をしていた。わたしには夫の言葉は理解できなかった。したいとも思わない。わたしはこれから、失った恋を取り戻しに行かなければ。

あなたへのラヴ・レター

趣味で文章を書こうと思ってね。
一応公開はしておくけれど、誰に見せる予定もない。

言葉は意識の機能であると同時に意識のもっとも重要な構成要素だ。
だから言葉の扱いを覚えれば、意識も鍛えられるのではないかと思って。

まずは慣れるところから。
体裁はおいおい整えていこう。

あの人のような文章が書けるようになりたい。